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伊豆の流人

本当の伊豆の流人って知っていましたか?


伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っておらず、多くは曽我物語などによるものである。

流人とはいえ、乳母・比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている。

仁安2年(1167年)頃、29歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。しかし祐親が在京の間にその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎(小次郎とも)の妻とし、頼朝を討たんと企てた。祐親の次男からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と通じる。強く反対した時政は平兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった。(しかしながら、山木兼隆との婚儀については、長女大姫の出生時期や兼隆の伊豆下向の時期を勘案すると事実であったか疑わしいとも言われている)

池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、清盛と不仲であった平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説もある。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年03月06日 19:32に投稿されたエントリーのページです。

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